あの夜から、私の日々はひどく憂鬱なものになりました。
好きだったお花の世話も身が入らず、気がつけばあの方がいらっしゃった池のほとりまで来ては、そこに誰もいないことを見とめて、悄然とその場に立ち尽くすことばかりが増え、縁談など尚のこと気が進まず、それどころかあの方以外の方に嫁ぐなど思うだに辛くて、嫌で嫌で堪らず父にどうかお相手に諦めていただけないでしょうかと申し上げたのですが、何分、相手方は通商の大きなお仕事をなされている方のようで、父も「一度お会いしてみなさい」と言って優しく話を終わらせてしまいました。きっと父は、どこの誰とも知れぬ方の虜になってしまった娘をなんとか良いところへ嫁がせて心を取り戻させてやりたかったのでしょう。
そうして日に日に塞ぎ込んでしまう私の唯一の慰めが、あの方にいただいたハンカチーフでございました。日毎香が薄らいではおりましたが、それでも文箱から取り出せばふわりと薔薇のように甘く仄かに翳りのある香りがして、じんと頭の奥が痺れ、夜月の写し身のようなあの方の姿がまざまざと目の裏に浮かんでは、どうしようもない想いが胸にさざなむのでした。
それでもとうとう見合いの日はやってまいりました。
朝から憂鬱さは増すばかりでしたが、縁談を取り持ってくれた父に不孝をするわけにもまいりません。ところが未明よりあれやこれやと仕度をするはずが、一向に家の中が静かですので──勿論、使用人たちは家を磨き上げるために忙しくしておりましたが──不思議に思い母に尋ねたところ、お相手様が大きなご商談のために僭越ながら見合いの席を夜にしたいと仰られたと十日ほど前にお父様がお話ししたでしょう、と驚かれてしまいました。あまりにも頓着のないことに私も恥ずかしくなって、緊張して忘れておりましたと言えば、母は安心したように笑って段取りを教えてくださいました。内心、私は父がそのような申し出をお受けになったことに驚いておりましたが、それだけ父は私の様子を案じていたのだろうと思えば申し訳なさに胸が重くなりました。
午下から仕度が始まり、夕方には一通り事が終わりまして、私は自室からぼうと庭を眺めておりました。髪が乱れぬようにと閉められた窓のガラス越しにあの方とお会いした御池のあたりが見えて、私は文箱からハンカチーフを取り出してそっと胸元にひそませました。すると、侍女が呼びに上がってまいりましたので、階下へと降りて応接間へ向かいました。
部屋の時計が七つを打ちました頃、お相手様がご到着なさいましたと侍女が告げて、壁の向こうから父と母とお相手方のものでしょう話し声が漏れ聞こえてまいりました。そうして扉が開いた時のことを、私は終生忘れはいたしません。
「はじめまして。夜分に申し訳ありません」
そうお告げになられた声は、私の身を芯まで震わせて、熱いものがぶわりと身体をかけめぐりました。近づいてくるお顔は、確かにいつか写真でお見受けした方に相違なく、それでも私には、目の前のお方があの夜にお会いしたあの方だということが、なぜだか明白に感じられたのでございます。
「どうかされましたか?」
私は呆然としていたのでしょう、かけられたお声にはっとして私は咄嗟に「いいえ、瀟洒なお姿で眩しゅうございまして」とはにかんでお答えしました。するとあの方は「そうですか、貴女様にお会いできると意気を込めすぎたかもしれません」とあの時と同じ面差しで微笑まれたのでございます。
何故、と思うことは幾つもありましたが、あの方を前にしては千々と消えてしまい、もし聞けばもう二度とお会いすることは叶わぬようにも思えて、私はこの幸いだけを甘受することにいたしました。
あの方はお名前を朔人とお言いになられて、見合いの席が夜になってしまったことをお詫びくださいました。そして、ご自身のことをお話しになられましたので、私はその低く柔らかな音色に耳を傾けながら、ただはいと肯いておりました。後に私も何事か申し上げはいたしましたが、あの方のお声を聞くに優るものはなく、またそのお話は機知に富まれていて、一度あの方が口を開かれるとたちまち言葉が彩を放ち、やはり私ははいと微笑むばかりでございました。
「私ばかり話してしまいましたね」
「いえ、お話とても面白うございました。異国の調度品、私も一度見てみとうございます」
屋敷を少し離れ、連れ立って庭を歩きながら私がそう申し上げますと、あの方は「では、今度屋敷を案内しましょう」とお言いになられて、それだけで地から足の浮き立つような心地がいたしました。
「そういえば、園芸を嗜まれるとお聞きしましたが、どの様なものをお育てになるのですか」
「花が好きで、珍しい株などをあちらこちらから取り寄せて育てております」
「では、青い彼岸花を聞いたことは?」
どこか、底冷えのする声でございました。それでも、その時の私は初めて耳にするあの方の真面目なお声にただ惚れ惚れとしておりましたから、物怖じもなくお答えすることができたのでございます。
「いいえ、聞き及んでございません。異邦のものでしょうか」
「いえ、この国にあるとのことなのですが。物好きの知人に頼まれまして」
「左様にございますか。私も父や知り合いにお聞きしてみましょう」
「有り難うございます。そういえば、藤などはお育てになられますか?」
「いえ、幼い時分、私が蔦を登って落ち、怪我をいたしまして、以来、我が家では藤は植えないことに。お恥ずかしい話でございます」
「成程、微笑ましいお話ですね」
ゆるりとあの方の眦が下がり、私は、有り難うございますとお返しして少し赤くなった頬に手を遣りました。
「おや、もうこんな時間ですね。それでは、名残惜しいですが今日はここまで。よろしければまたお会いいたしましょう」
腕時計に目をやったあの方はゆっくりとそうお告げになって、尋ねるように首を少し傾げられました。私は引き絞る様に脈打つ胸を宥めて、勿論でございますと努めて平静を装いましたが、あの方の笑みを見ればその首尾があまり芳しくなかったことは瞭然でございました。
門までお見送り致しますと申し出た私を、何も言わずに玄関までお連れになって、あの方は「それでは」と一礼をして去って行かれました。後にはただ、あの夜と同じ香りだけが幽かに残っておりましたが、それも心ない夜風が掻き消してしまいました。父や母が疲れただろうと言って何も聞かず、仕度を解いた私を部屋へと通してくださったのは幸いにございました。もしも何事かを聞かれていたら、あの方があの夜にお会いした方のように感ぜられたと口を滑らせて、父をひどく憂慮させたに違いありません。
私はなんだか今夜のことがまことであったのかはっきりとした心地がせずにおりましたが、それでも床に就けば、昂る心とは裏腹に、どっと気怠さが押し寄せてまいりまして、そのまま沈むように瞼を閉じたのでございます。