恋とは地獄にございます。
あの方と初めてお会いしたのは、月も差さぬ夜のことでした。私は近々見合いを受ける身でしたが、とんとお相手には興味が持てずに、出ていかなければいけない家のことばかりを惜しんで、ひとり庭に出ておりました。
我が家の庭には園芸家でもある父が異国から取り寄せた薔薇が植ってあり、春めきだした時分それが一斉に花を綻ばせると、まるでそう辺り一面血に濡れた様に赤くなり、むせ返るほどの豊かで妖艶な香りが屋敷を包みました。
庭は外と繋がっておりましたから、晴れた日などはお隣の方々や画家の先生を呼んでのパーティが開かれることもありました。
あの夜もそんな香気に引き寄せられてふらふらと私が庭を歩いておりますと、外に近い御池の近くに人影をみとめました。
使用人がなにかまだやってるのかと思いまして、何気なく近寄って見たあの時のことを何と言いましょうか。
雷に打たれたような心地でした。
夜闇に浸したような髪、白く青ざめる肌、柔らかな頬のうちの薄氷の唇が微かに動いて何かを発しました。「おや」だったかも知れませんし、ただの嘆息であったかも知れません。ただ、その時の私はその血濡れの薔薇のような赤い瞳を見つめたままぴくりとも動けなくなっておりました。
一寸のうちにあの方は私がどのような思いで立ち尽くしているかお解りになったのでしょう、そのかんばせに柔らかな笑みをおつくりになって「すみません、お住いとは気づかず。美しい薔薇ですね」と歌うようにお言いになられました。
その声にはじかれるように顔を逸らすと、瞬間、指にするどい痛みが走り、私はつい「あっ」と声を上げて右手を押さえました。すると、「いけない、薔薇の棘に刺されましたか」という声とともに、月のように白く少し痩せたひどく冷たい手が私の手に触れました。きっと私が真っ赤になっていたことは、月明かりがなくとも目の良いあの方にはお見通しだったでしょうし、触れたところが脈打つように熱くなっているのは隠しきれたものではございませんでした。
あの方は胸元からハンカチーフをお取りになって、「どうか、これを」と私の手をお包みになられ、その場を去ろうとなされました。
咄嗟、私の口は動いておりました。
「あの」と顔を上げて呼び止めれば、ざあと風が吹くのがどこか遠くで聞こえて、何か決定的な運命のようなものが定まっていくのを感じながら、転がり出た言葉は止むことはありませんでした。
「貴方様の手中の珠になりとうございます」
響いた声は思いの外はっきりと耳朶を叩き、張り詰めるように上がった熱気は、しかし、見つめたその先で、あの方の眉が訝しげに動くのを見とめて、潮のように引いてゆきました。先ほどまで激情に震えていた唇も、不躾な己の言葉と、あの方の顔に浮かぼうとする憮然たる兆しに、打ちのめされたように血の気を失っていました。
「……ありがたい申し出ですが、申し訳ありません。何分、まだ至らぬ身ですので。それでは」
遠ざかる足音を聞きながら、気がつけば身体が凍えるように寒く、その夜どこをどうやって自分の部屋まで帰ったかは覚えておりません。ただ握りしめた真白のハンカチーフに滲んだ朱が、あの方の顔と重なって、思い出せば胸の奥が焦げるように熱くなり、また二度とお目にかかれぬであろうあの方が最後にお向けになった瞳の冷たさが浮かんでは、涙が頬をつたいました。
それでも、あの方の触れた指先はいつまで経っても棘が刺さったままのように脈打っては、じくじくと痛んで私を苛んだのでございます。