第三話

私があの方ともう一度お会いしたいと申し上げれば、父は大層お喜びになって早速手紙をお出ししなさいと笑って諾われました。
けれど文机に向かえば、昨日は夜の靄に巻かれたように掴みかねていた不思議が湧いてまいりまして、私ははたと手を止めました。一体、赤の他人に為りすますことが──何度か談じたであろう父すら欺くほどのことが──可能でしょうか。お仕事や日々のお話は以前父より聞き及んだものに相違なく、あの方に妙なところはひとつもございませんでした。父や母にとっては、ただ私があの夜に心奪われたお方の面影を想って盲目しているだにすぎぬでしょう。
それでも私の、あの方は朔人様ではないという思いだけは確かでした。なぜ、と問われれば茫乎としておりますが、ただあの方の、なにかこの世のものではないような、滲みだすその神秘さだけは、違えようもなく私を酔わせては全てを霞ませてしまうのでございます。
ただ一言、貴方様はあの夜お会いした方でしょうとお聞きすれば済んでしまうこと。けれど、あの方は朔人様としていらっしゃったのですから、私が気づかぬ方がご都合が良いのでしょうし、なにより打ち明けたが故に、あの方が私の元を去ってまた何某かの方として他の女性に微笑まれるかと思えば、胸の奥が炙られるように痛み、この縁を決して離してなるものかと腑の煮えるようなどろどろとした熱が我が身を呑みにかかって、生きた心地がいたしませんでした。思えば、あの方のお傍に在るためならば無知な女でいることになにひとつ不平はなく、ならばその様にと文をしたためたのでございます。
果たして、それからの日々の移り変わりは万華鏡のように煌めいておりました。
あの方からのお誘いでお屋敷に伺った日はあいにくの雨でございましたが、通していただいた部屋では見るもの全てが眩く、あの方はひとつひとつ由来をお話しになっては私を楽しませてくださいました。何気なく開かれた箱には、阿蘭陀の職人が手がけたという簪が三本、どれも美しく瀟洒に佇んでおりまして、私が思わずまあと声を上げると「気に入ったなら差し上げましょう」とそのうちのひとつを手に取って私の髪にお飾りくださいました。以来、それは肌身離すことなく今も私の宝にございます。
連れ立って参りました夜会でのあの方といったら、なんと申せばよいでしょうか。まるで天人が舞い降りたかのようで、その優雅な身のこなしは全ての目をご自身へと注がせてしまいました。けれどあの方はそれらを気にもお止めにならないで緩やかに伏せられた瞼を時折ゆるりと開かれては、柔らかな眼差しが私をお映しになる時に胸に広がる陶酔といえば、とてもこの世のものとは思えぬものでございました。あの方はどのような方とも気兼ねなくお話しなさいましたから、その巧みな話術はたちまちあの方を夜会の華になさいました。そのようなお姿を見るに、私はあの方の隣を歩めることの幸せを駆け出しそうな衝動と共に胸に焼きつけるように抱いておりました。
あの方が、婚約を申し出てくださったのはちょうど向日葵が咲きだそうかという頃でした。私は今すぐにでも嫁ぐ想いでおりましたが、あの方に「大きな仕事を終えてからきちりと貴女をお迎えしたいのです」と告げられれば、もう何も言うことはなく、貴方様がそう仰るならとその申し出をお受けいたしました。それでもその時初めてあの方の口から「#なまえ#さん」とお聞きした時は、身体中の血がかっと沸騰したように騒ぎ立ち、震えるばかりで一向に役に立たない唇をどうにか叱咤して「はい、あなた」と声に出せば、まるで心が溶けて流れ出たように知らぬ間に涙が溢れ、あの方はそれにとても驚かれたようで、私が頬を拭うのを黙って眺めておられました。
それから少しして私は住み慣れた家を離れて、あの方と暮らすようになりました。内縁の妻ということに父は大層不満を持っておりましたが、それでもあの方の真摯なお言葉と私のあの方のお傍に居たいという嘆願でもって渋々お許しをいただきました。
あの方は日々忙しくされており、日の出る前からお仕事に向かわれては、日の沈んだ頃にお帰りになられるので、私はその間お庭で家から運び込んだお花の手入れをしたり、珍しいものばかりのお屋敷を散策したりしておりました。特に陽のよく当たる二階のお部屋は私のお気に入りとなりましたから、そこに鉢植えをいくつか飾って、中央に据えられた優に三人は座れるでしょうソファで読書をするのが日々の楽しみでございました。近くの机には烏と雀が一羽ずつ口を開いて木に留まっている彫り物が飾ってあり、その流れるような意匠も私の目を喜ばせてくれたのでございます。
そしてその日も、いつもと変わらぬように過ぎておりました。
庭から戻り、陽の差す二階のお部屋で本を読んでいたところ、気が緩んだのでしょうか不意に眠気がやってきて、いつの間にかソファに横になって眠っておりました。そして、夢現の私の耳にどこからともなく声が聞こえてまいりました。
「まだ見つからないのか」
それは、地を這うように低くあまりにも冷ややかな声でした。苛立って吐かれたのでしょうその言葉には情けなどは一切感じられず、ただ淡々とそれでいて痛烈に相手を責めたてておりました。
「人間を多く殺したから、なんだ。与えた役目を果たせないほどお前たちは無能だったのか」
突き刺すような気配を感じて私の背は震えました。それが殺気だということは、その時の私には知るよしもありませんでしたが、背筋に巣食った悪寒は私をその場に縫いとめて身じろぎひとつ叶わなくしてしまいました。
同時に私は信じられない思いでございました。それは紛れもなくあの方のお声だったのです。
全てが平素のあの方からかけ離れておりましたが、何故か私の腑にその声はすとんと落ちてまいりまして、今までのあの方の柔らかで優しい笑顔をするりと剥ぎ取って、その裏に棲む冷酷で無慈悲な本当のお顔がまざまざと脳裏に映し出されたのでございます。
私の心臓はどくりどくりと騒ぎ、耳は血潮の音が聞こえるほどそばだっておりました。あの方の今までお聞きしたことのない声を聴く度に、私の身には名状し難い震えのようなものが広がって、寝ているのか立っているのかもわからぬといった風にまるで自分がどこかへ落ちていくように感ぜられました。
ああ、あの方は『鬼』であったのだ。
甘やかな嘘で人を欺いては、人を殺し、そうして何とも思わぬような、鬼であったのだと私は悟ったのでございます。
その時、ガチャリと部屋の戸が開く音がいたしました。