「そんなところで寝ていると、風邪を引きますよ」
かけられた声に弾かれるように私は起き上がりました。あの方は私の顔から何をお読みになられたのでしょう、「どうしました、顔色が酷く悪い」といつも通りの柔の頬に心配気な表情をお浮かべになって、ゆっくりとこちらに近付いてまいりました。
「とても、怖い夢を見ました」
張り付いた唇を震わせて、どうにか声を絞り出しますと、あの方は「それはいけない」と私の頬に手をお伸ばしになり、私は咄嗟に「抱きしめてくださいませ」と懇願しておりました。
あの方は一瞬戸惑ったように手を止めて、しかし何事もないように優しく私の身体をお包みになりました。その温柔な腕のひどく冷たいことに、私の頬は濡れておりました。このまま、何も知らぬ振りをすれば、この方は来たる終わりの日まで私に愛を騙ってくださると、それは痛いほどわかっておりました。けれど。
「あなたは、鬼なのですね」
瞬間、ぐるりと世界が回って、身体に衝撃が走りました。肺や腹がひしゃげた音がして、見れば私の肩と腹をあの方の背から伸びた鞭のようなものが貫いておりました。身体中が燃えるように熱く、宙に浮いた足先まで温かい血が滴っていくのがわかりました。
「どこで聞いた」
血濡れの双眸が炯々と私を映しておりました。
それは、まさしく鬼の顔でございました。冷たく残忍で自分以外など毛頭勘定にない、悉くを意のままにしようとする、あの方の、全てでございました。
私は黙っておりましたが、先程巻き込まれて壊れたのでしょう卓上の置物から、細いパイプのようなものが見えて、あの方は得心がいったようでした。
「お前はもう少し利口な女だと思っていたが」
違ったようだと私の短絡さを責めるようにあの方は私を睨め付けました。けれど、私は頭を振って微笑みました。
「あなたのその眼が欲しかったのです」
今まであなたにあの柔らかく身を溶かしてしまうような顔で微笑まれた方は数多くいらっしゃるでしょう。その血も涙もないまるでガラス玉のような眼で見下ろされた方もいるでしょう。けれど私はそれら全てが欲しかった。あなたの、嘘も真もすべて。
理解できないと言ったようにあなたの顔が歪んだのを見て、本来はそのように直情的な方なのだと知った私の胸はますます高鳴りました。見たことのない眉間の深い皺に口付けるような心地さえあったのです。
「私の眼が、なんだ。仮初の籍もない女が自惚れるな」
「あなた」
言葉を遮るように声をかければ、それだけであの方の顔が不快に彩られます。私は初めてあなたとお話しができたようにすら感じました。
「愛しております」
瞬間、ひゅんっと何かが耳元を掠めて、目の前が真っ暗になりました。なにか致命的な傷を受けたのでしょう、思考がどんどんと遠ざかっていくのがわかりました。
死にゆく私を満たしていたのは、あの方が最後に見せた、おぞましいものを見たかのような目でした。その視線でもってやっとあなたの輪郭に触れたかのように感じれば、これ以上の幸せはなく、眠るような心地に身を任せました。
嗚呼、それでも心残りはございます。
最期にあなたの口から名前を聞きとうございました。
けれど最早叶わぬ夢にございます。
さようなら。どうかお元気で。
名も知らぬあなた。
愛しております。
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気が付けば、足元に川が流れておりました。
私はどこか明るいとも暗いともつかぬ場所でひとり佇んでおりました。
嗚呼、これが彼岸というものだと何故かすぐに承知いたしました。私の前には薄暗い道が広がっており、その少し上を明るい道が、そして下には真っ暗な道が続いておりました。あれが地獄へと向かう道なのでしょう。
あの方は来るでしょうか。
いいえ、生きているものは皆必ず死にます。幽鬼のようなあの方でも、生きているならいつか終わりはくるでしょう。
私は待ちました。様々な方がやってきては、それぞれの道へとお進みになるのをただじっと眺めておりました。上の道を羽織を纏った少年や、隊服のようなものを着た子供たちが多く過ぎることがわかりました。そこではどの人も温かなものに包まれておりました。私のいる道には、どこか陰りがあるような方が多くいらしては、それでも粛々と道をお進みになられていました。不思議なのは、どなたにも私が見えていないということでした。下の道には人を殺したでしょう人も、人を殺めたであろう鬼も来て、皆多くは真っ暗な道へと向かいました。けれどその前に何か光る優しいものが彼らを包んでは、人へと戻り少しだけ明るい道へと向かわれる方もいました。
どれくらい待ったでしょうか。
果たして、あの方はいらっしゃいました。
下の道のさらにずっと遠く、何も見えぬような暗闇に、あの方はいました。
そのお姿は私の知るあの方とは、随分違っておりました。白く長い髪に、いくつもついた傷、腕や脚には口のようなものが生えていて、さながら鬼と呼ぶに相応しい容貌でございました。それでも私はあの方へと手を伸ばしました。
あの方は真っ暗な世界で何を思われているのか、ひとり立ち尽くしておられました。それが私には酷く寂しいものに見えたのでございます。
「あなた」
声をかければ、あの方ははっとこちらを見上げました。あの方の眼にはただ一筋光が差したと見えているようで、そのお顔には信じられないという表情がありありと浮かんでおりました。まさしく私はあの方の蜘蛛の糸だったのでございましょう。ただ、私も同じく罪に濡れた身でありましたからきっとあの方の罪重には耐え得なかったでしょうけれど。
あの方は私に手をお伸ばしになりました。
それが少し震えているように見えたのは、きっと私の思い違いでございましょう。そのまるで迷子のようなお顔も、ええ、きっと。
「あなた、御名前を」
そう言えば、あの方の口が微かに動きました。それは、奇跡のような瞬間でございました。はっきりと私にはその名が聞こえたのでございます。
「無惨様」
そう告げれば、あの方の顔に鬼が戻ってくるのが見えました。あの方は必死にこちらに手を伸ばして光を捕まえようとなさいました。行くな、私も連れて行けと、何故私だけと我儘に叫ぶ声が遠くで響きました。
それでもそれは叶わないのでございます。
私にはあの方の足元に何百、何千という業が渦巻いてはあの方を暗闇へと連れていくのが見えておりました。けれど、私は手を伸ばし返しました。
「あなた、お待ちしております。幾年かかろうと、あなたが罪をお洗いになる日を、そうしてまたお逢いする時を、ずっと」
あなたにはそのような日が来ずとも良いのでしょう。それでも、私はあなたをお慕いすると決めたのでございます。それがどれだけ己の罪を重くしても、私の恋は地獄へと通じておりますれば、今更何を恐れることがありましょう。故に、私は告げました。
「さようなら、無惨様」
その声と共にあの方は見えなくなりました。
そうして私も行くべき道へと誘われているのが感ぜられて、素直にそちらへと進みはじめました。
さようなら、鬼のあなた。
またいつの日かお逢いいたしましょう。
その時はどうかあなたが幸せでありますよう。
どうか、あなたがひとりではありませんよう。
そして願わくば、その隣に私も在りとうございます。
どうか、どうか。
生まれくるあなたに、幸多からんことを。
─了─