第2話

「……あら、ご機嫌ね。ギーマ」
「そう『視える』かい。カトレア」
挑戦者との勝負を終えてポケモンリーグの控え室に現れたカトレアに、わたしはソファに腰掛けたまま笑みを返した。どうやら今回の挑戦者は、かのじょにとってもその眠気を覚ます程度には刺激的だったようだ。バトルを終えたポケモンたちをボールから出しながら、自分の椅子に向かうカトレアの足取りは、いつもより幾分現実感があった。
「ええ、彼が来た時はいつもそうだけど、……今日はなんだか甘い香りがするわ」
「フッ、きみの眼には敵わないな」
来る前に贈り物をもらってね、とサイドテーブルに置いた紙袋から中身を取り出す。チョロネコの顔を模したパンが袋から顔を覗かせると、カトレアの表情が少し緩んだのがわかった。生粋のお嬢様も、愛らしいものを目にすれば少女に戻るものだ。そのまま耳の部分を一口かじると、ふわりと部屋に香ばしいチョコレートとバターの匂いが広がった。
「……ふふ、アナタがそれを食べているのは、なんだかおもしろいわ」
「だが味はなかなかだぜ」
「でも……、分けてはくれないんでしょう?」
アナタのだものね、と今度はそれこそチョロネコのように悪戯そうな表情をしたカトレアが、かのじょのために設られたソファに腰掛ける。わたしは肩をすくめてパンをサイドテーブルのプレートに置き、そのまま部屋に備え付けられたオープンキッチンへと向かった。カトレアの分の紅茶を淹れ、砂糖壺と共にかのじょの前のテーブルに差し出す。
「ありがとう……。砂糖はふたつの気分ね」
「ふうん。『尖った舌』に砂糖はいらないかと思ったぜ」
「まあ」
そんな軽口を交わしながら、かのじょの望み通りの砂糖が足された紅茶を、カトレアは礼を言って手に取り口にする。その流れるような所作には、いつもながら一縷の乱れもない。それは生まれながらに人の上に立つことを自明としてきた者の佇まいであり、それだけで他者を傅かせるに足る品格を有していた。
「……アナタの紅茶は淹れるタイミングがぴったり。さすがね」
「お褒めにあずかり光栄だ」
「……少しはカレと話せて?」
そっとティーカップを置きながら尋ねたカトレアに、あいにくと手を開いてわたしも椅子に戻る。
「今日も道中でバトルを申し込まれたとかでね。わたしもこちらに来る途中だったからな」
「そう……。最近はあまり来ないものね、カレ」
どこか他の場所を見つけたのかしら、と小さなあくびをしたカトレアがソファに沈み込みながらこちらを見やり、あらと声を上げた。
「ギーマ、今のアナタの顔……、シキミが見たらきっと良いモチーフだって大喜びしたわ」
「……きみたちの目は良すぎるな」
ここじゃわたしのポーカーフェイスも形なしか、とやれやれというように肩と眉を下げて笑うことで、無意識のうちに身体に入っていた力を抜く。らしくないなと内心少しばかり嘆息した。かれ……トウヤがポケモン勝負を楽しんでいるのはいいことだ。研ぎ澄まされより豊かな感性を持ったかれとするバトルは、わたしに今以上のスリルと高揚感をもたらしてくれる。勝負の勘も冴えるというものだ。
そう頭を切り替えて、サイドテーブルのパンへと手を伸ばしたその時、部屋の扉が元気よく開いた。
軽い足音と共に響く「呼びましたか?」と弾む声。新しいネタの気配に踊る心を隠しようもないといったシキミの様子は、至って普段通りだ。挑戦者とのポケモン勝負で多少乱れた髪を気にする素振りもなく、かのじょの好奇心は既にこちら側に注がれていた。
「『密談を交わす一組の男女、そこには甘くとろけるような香りが──』、むむっ、それはトウヤくんからの贈り物ですか?」
「……きみもエスパータイプになったのかい?シキミ」
シキミにまで言い当てられたのは予想外だった。が、それも少しのことだ。気を紛らわせるようにパンを口へと運ぶ。
「いいえ、皆さんのことはいつも近くで観察してますからちょっと推理してみただけです。まずギーマさんが選ばないであろう種類のパン。そしてカトレアさんがいるのに彼女は食べた形跡がない。あとは──、なんだか柔らかいギーマさんの雰囲気ですね」
「……」
ほんの一瞬、身体が固まった。勝負師という生き方をしている以上、自分の表情や態度、雰囲気をそれなりにコントロールできる自負がわたしにはある。それが、人のオーラのわかるカトレアはともかく、観察眼に優れているとはいえシキミにまで気の緩みを見抜かれたのは、かなりの衝撃だった。
それでも、口に留まっていたパンを大げさに飲み込んで、まいったなと言うように手のひらを掲げてソファへ身を沈めてみせた。
「恋ってやつは、このギーマですらダメにするらしい」
そうやって降参と会話の終了を態度に滲ませたわたしに、眠りに落ちようとしていたカトレアの、ひっそりとした呟きが聞こえた。
「……恋に狂わないといいわね、ギーマ」



… … …



「おはよー!」
「うん、おはよう。今日も気をつけて」
「はあい!」
ホームをゆく黒い革靴とスーツの波の中、勇敢に腕を振りながら進んでいく黄色い帽子の子たちに、手を振り返す。小さな背丈にわくわくをいっぱい詰め込んだ彼らは、時にはこのバトルサブウェイで、大人に引けをとらないポケモン勝負を見せてくれたりもする。
定刻になった。
発車合図のベルを鳴らす。
10人。7人。4、3、2、1。ゼロ。
みんなが乗車したことを目視して、指差し確認。
準備オッケー。
先頭車両の運転士、車内やホームにいる乗客、鉄道員、全員に向けて声を出す。
これがぼくらの仕事。
「出発進行!」

「あーっ!クダリさんまた書類の上でバチュルを遊ばせて!ぐしゃぐしゃになっても知りませんからね」
「うん。カズマサ、備品室はこの部屋を出て右、左手側の4つめの扉だよ」
「ありがとうございます!」
大げさに感謝をするカズマサに、いってらっしゃい、と手を振って、ごきげんに乾電池にじゃれていたバチュルの下から紙を引き抜く。
書類仕事だって、ぼくらの大事な仕事。
見落としや間違いがないかを再確認して、サインをする。もう1枚手に取る。読む。再確認。サイン。もう1枚手に取って……ずっと文字の波を目で追うのは、けっこう疲れる。
つい、またバチュルに手が伸びる。
ぱちぱちした毛を撫でていると、この子と一緒にバトルする想像がたくさん浮かんでくる。
この子はすばやさが高いから、それを活かしてエレキネットで相手のすばやさを下げたり、でんじはでまひを入れるのはどうだろう。ふくがんを持っているし。それならエレキボールは覚えておきたい。こうそくいどうは過剰かな。てだすけやひかりのかべもいい。それから──
「兄さん」
ぱち、と心に静電気が走ったような感じ。
後ろを振り向けば、灰色の帽子、灰色の制服。ぼくらとおんなじ灰色の目。
「なあに。#なまえ#」
「書類、今日まででしょう」
まっすぐに引結ばれた口からちょっとしたお小言。それとは裏腹に、#なまえ#の伸ばした手はぼくの前を通って、バチュルの頭をふわふわ撫でる。なんだか素敵な光景、なんてのほほんと考えていたら、#なまえ#がにこっと笑った。
「バチュル、『おうえん』する?」
「バチュ!」
「わ、」
まってまってと急いで書類に向き直る。『おうえん』は言葉通りポケモンたちがぼくたちを応援してくれる合図。でもバチュルたちのそれは大体が全力のでんきわざだったりする。くらっても少しの間しびれて動けないくらいだけど、今そうなると次の業務までに提出が間に合わなくなるかもしれない。
紙に走るちいさな文字とにらめっこしてると、頭上から#なまえ#が「おうえんは後でにしようか」なんて、バチュルにちいさく笑いかける声が聞こえた。
#なまえ#が斜め向かいの席に座ると、部屋から大きな音がなくなって、近くや遠くの小さな音が耳に寄りそってくる。それは結構心地が良くて、文字が頭にすんなり入ってくる。
かち。ぱら。こち。さら。
かち。ぺら。こち。
かち。
こち。
いつのまにか耳が音から離れていたことに気づいた時には、書類はすっかり片付いていた。
時計はまだあと17分ちょっとの余裕を教えてくれている。横を見ると、遊び疲れたバチュルが乾電池をくわえて眠っていて、思わずつつきたくなるのを抑えて立ち上がった。
「兄さん、おつかれさま」
「うん。ありがとう#なまえ#」
書類から目を上げて声をかけてくれた#なまえ#に、笑って「コーヒーいる?」と聞けば、「うん」と小さく頭が揺れる。2人分のコーヒーを淹れて、デスクに戻ってくると、#なまえ#の席でエルフーンがぽわんぽわんと跳ねている。
「はい、#なまえ#」
「ありがとう、兄さん」
「ごきげんだね」
イタズラをするでもなく跳ねているエルフーンを指でからかいながら言うと、#なまえ#の目がきらっと輝いた。
「うん、トウヤくんがスーパートレインに挑戦しにきてね」
もう少しで負けるかと思った。そう言う#なまえ#の瞳には強い光が宿っていて、トウヤとのバトルの楽しさを何よりも雄弁に物語っていた。
ぼくは知ってる。闘志、期待、スリル、そして自分と相棒への信頼。ぼくにも、ノボリにも、トウヤやトウコのような挑戦者にもある輝き。#なまえ#はいつもは大人しいけど、すごくひたむきで頑張り屋で、特にポケモン勝負になった時のパワーはすごい。きらめいていてわくわくがこっちまで伝わってくるくらいの迫力。
ぼく、そんな#なまえ#の表情が好き。
「あ、兄さん。もうすぐ時間だよ」
「!」
パッと時計を見ると後5分で執務室を出ないといけない時間。飲みかけのぬるくなったコーヒーを飲み干すと、#なまえ#が手を差し出した。ありがとう、と言ってマグカップをその手に渡して、コートを羽織る。制帽をキュッと被り直して、気を引き締めた。
「じゃあ、いってくる」
「うん。いってらっしゃい、クダリ兄さん」
マグカップをふたつ持った#なまえ#と、その後ろでふわふわしているエルフーンに手を振って、ドアノブに手をかける。
「そうだ、#なまえ#」
「なに?」
「今度ポケモン勝負しよう」
#なまえ#の目を見て、笑う。そのまますぐにドアをくぐったから、#なまえ#がなんて言ったのかはわからないけど、#なまえ#の後ろでエルフーンが嬉しそうに飛び跳ねていたから、きっと大丈夫。笑顔でぼくは歩き出す。
「さあ、今日も元気に出発進行!」